ぼくの世界を変えた本、あなたの世界を変える本

【メモの魔力//前田裕二】(1/3)

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2月を迎えて井戸の底。普段は小説を書いてます。趣味は映画鑑賞とボードゲームと飲酒です。最近、YouTubeを始めました。

前置き

 僕は小説を作るとき、常に課題を設定する。
・どういうシーンを描きたいか。
・そのシーンの完成度を上げるにはどうすればいいか。
・読者にぐっと身を乗り出してもらうには、どういう人物を造形するべきか。
・軸となる主題を仄めかすには、どういう演出が必要か。
 そういった課題をリストアップし、iPhoneの純正メモアプリに書き残しておく。その後は、日常生活の中でその課題に対応する解答が浮かんでくるのを待つ。あるいは新しい「効果的な課題」が浮かび上がるかもしれないが、大事なのは二点。

①時間が空いたら常にメモとにらめっこしてあれこれ考える。
②仮に何かが浮かんだら職場だろうかデート中だろうがシャンプー中だろうがすぐにiPhoneに入力する。

 そして、あらかた解答が出揃ったら「メモ2」を作り、「メモ1」を踏まえた上で新たな課題を設定する。飲酒をするときは「酒メモ3」という形で、素面ではできない発想を意識する。それを繰り返していると、平日だけで大体「メモ5」くらいまでたまっている。そうしたら、週末に書き散らかした「メモ」達を整理し、プロットに適宜組み込んでいく。それを毎週繰り返すのが、僕の小説の書き方だ。

 という訳で、前田裕二の「メモの魔力」を読む前から、形式の差分こそあれど僕は既に「メモとずぶずぶな関係」だった。そういう事情があったから、この本を読んで「なるほど、メモにそんな力があったのか!」という、いわば「目から鱗が落ちる」ような気分は味わえなかった。

 しかし、さすがに話題になっている本だけある。要所要所で提示される視点の切れ味等には思わず「面白い!」と膝を打つようなところがいくつかあった。今回は、そういった点にもフォーカスしつつ記事を書いていきたいと思うが、無論それまで「メモとずぶずぶでなかった」方であれば、本書は一読の価値があるということを念のため申し添えておく。本書の魅力は、メモを「単純な事実の記録ツール」で終わらせず「知的生産をブーストさせるツール」として再定義しなおしたところであり、そしてその「一見複雑そうなツール」の使い方を誰にでも直感的に理解できる平易な文体で書いてくれたところである。

 次へ行こう。

「メモのススメ」

 本書のそでに書かれた文章を要約すると、以下のようになる。

「メモによって生まれた熱は、人を動かし、人生を動かし、世界を動かす」

 これを読んだあなたが仮に「いくらなんでも大げさな」と思ったとしても、不自然ではないだろう。大方の人間にとって「メモ」とはいわば「単なる備忘録」に過ぎないからだ。
 しかし、彼に言わせるとどうもそうではないらしい。

 では、メモとは何か。
 これは本書から引用したほうが手っ取り早いだろう。

(前略)「打ち合わせの日時がいつだったか」などといった情報自体は決してクリエイティブなものとは言えず、単なる「ファクト(事実)」です。

 そのファクトは最初から与えられたものとしてわかっている前提で、では今度は、そこから何が言えるのか、そしてどうアクションするのか。これらを一歩踏み込んで考えることこそが、クリエイティビティです。要は、「過去のファクトを思い出す」という余計なことに思考の時間を割かないために、メモをするわけです。

 で、本書はその「クリエイティビティ」を具体的に実践するためのやり方を分かりやすく紹介してくれる。見開きのノートをどういう風に区切り、どういう風に埋めていけばクリエイティブな発想ができるか、というところまで丁寧に解説してくれる。その方法については枝葉のことだと思うし、人の知的生産に正解などないから、細かいやり方の参考に関しては本書を読んでもらうことにして、まずは前田裕二の言う「メモの書き方」がいかにしてクリエイティビティを加速させるのかを述べたいと思う。

メモで創造性を加速させるプロセス

加速、の安直なイメージ

 本書を通して言及される「創造的なメモの使い方」とは、つまりこうである。

 ファクト
  ↓
 抽象化
  ↓
 転用

①ファクトとは何ぞや。

 これは先述した通り、いわば日常に氾濫している無数の「事実」「情報」「気づき」である。「今日の19時に人と会う約束がある」「アベンジャーズエンドゲームに感動した」という「忘れちゃいけない情報」「思い出として忘れたくない情報」もファクトであるし、「最近チョコミントが流行っているらしい」「ネットでたまたま見つけた面白い記事」と言うメモもまたファクトである。本書が語る「メモの魔力」は、そういった無数のファクトを敏感に受信し、文章に書き残すところから始まる。

②抽象化とは何ぞや。

 もしもあなたのアンテナが真にビンビンだった場合、蓄積されるファクト(種となるメモ)はすぐに膨大な量になるだろう。それをそのまま放置した場合、メモ帳はただの膨大なデータバンクに過ぎない。もちろん、それとて価値がない訳ではないが「メモの魔力」の神髄の半分は、この「抽象化」にある。
 手っ取り早く解説すると、ファクトから「本質的な骨組み」みたいなもの、いわば「法則」を抜き出すことが「抽象化」である。「なぜエンドゲームに感動したのか」「なぜチョコミントがはやっているのか」という自問自答で以て思考を垂直方向に深掘りした結果「~~だから、流行っている」「~~だから、感動した」という考えが思い浮かぶかもしれない。そういう、「~~」の部分を見つけ出す行為、これが抽象化である。

③転用とは何ぞや。

 ここが「メモの魔力」の神髄のもう半分である。
 抽象化で「~~」の部分を抜き出した。それだけで終わっている場合、それ単体ではファクトに対する理解を深めただけに過ぎない。もちろん、対象への理解を深めることは、それがビジネスの範疇でも趣味の範疇でも非常に重要なことである。特に、作家や、作曲家、画家などは「なぜ名作が名作なのか」という抽象化をすればこそ、「勉強」が成立する。「あ~なんかわからんけど良い映画だなぁ~」で終わっている場合、それを「勉強」とは呼ばない。(と僕は思っている)
 本書では、更にそこから一歩踏み込む(踏み出す?)具体的な手段として「転用」を上げている。これはつまり、抽象化で抜き出した「~~」を全く違う分野に応用しよう、ということである。

例えば、、、

 スターウォーズは名作である。
 誰が何と言おうが、むちゃくちゃ面白い。
 それがファクトだとすると、「なぜ面白いのか」を考えることが抽象化である。スターウォーズはと言うと、どうも「黒澤映画に端を発する脚本の構成や時代劇のような演出」を、万人が胸躍る「冒険活劇」の皮でデコレーションしつつ、そこに「スペースオペラ(SF)」という個性を添加させたところに面白さの秘訣がある気がする。もっと簡潔に言うと、

スターウォーズの魅力=「古典的魅力」×「大衆的魅力」×「独自性」

 という骨組みが見えてくる。これが、抽象化である。
 今後EUROPA BOOKSが魅力的なブログになるために、この「既に有名な何か」×「キャッチーなツカミ」×「突飛なスパイス」という掛け算を、流用するとすると、

魅力的なブログ
=「有名な本の紹介」×「手っ取り早く内容を知れる」×「僕の文章」

 これが転用である。
 という訳で、もっともっと変な文章を書いていこうと心に決めた僕だった。

意識して見比べてみると、結構類似点が多い。
ダースベイダーのモチーフも甲冑だと言われているし、そもそもジェダイの語源は「時代」である

 そしてこの、

 ファクト
  ↓
 抽象化
  ↓
 転用

 というフレームワークを、ビジネスに限らず、趣味や創作、日常のあらゆる局面、果てには「自分自身について」まで適用させよう、それによって、それまで単なる「ファクト」で終始していた無数の事物をアイデアへと昇華させ、様々な分野へと活動の手を広げていこう、というのが本書の本旨である。

 

 続いて、僕が「面白い」と感じた箇所を引用と共に紹介していこうと思う。

伸びるツイート

何かを一言で表すには、相当な抽象化能力が必要になります。一言で的確に表現されているレビューや言説を見たとき、それが短く端的であるほど、裏側にある膨大な抽象化思考量を想像して、畏怖の念を覚えます。

 僕はTwitterをやっている。140字を文字数の上限とするツイートでは、だらだらと長文を書くこともがきないから(スレッド形式で書き連ねることも可能だが)、140字以上のニュアンスをツイートする場合、必然的に抽象化のプロセスが必要になる。

 で、ここ数ヶ月というもの、僕は映画が好きそうな人ばかりをフォローしていたから、タイムラインに流れてくるツイートも映画の感想であることが多いのだが、「RT」や「いいね」の数が伸びている「映画の感想系ツイート」を見返してみると、確かにそこにはそれなりの抽象化思考があるように感じる。それを呟いた当人が意識的にしているにせよ無意識的にしているにせよ、抽象化がうまくいっているからこそ、それを読んだ人間が様々な転用(連想、あるいは共感)を行い、結果彼らの心の琴線に触れて「RT」と「いいね」が伸びたのかもしれない。

 なるほど、前田裕二の言うことももっともな気がした。

「オタク」は最強

 では、これからの社会において、どんな「個」が価値を持つのか。

 僕は、何かに熱狂している「オタク」であることが、価値創出の根源になると考えます。

 ここらへん、すごく面白かった。

大衆が思い描く「オタク」
の前時代的イメージ

 画一化を本旨とする昭和と平成の社会では、突出した「個性」を持つ人間を「オタク」という否定的な文脈で語ることで、「はみだした誰か」が異常であり、はみださずにいる「我々」が正常である、故に「我々」が正しい、という自己満足的の世界観を楽しんでいたように僕は思う。

 そういう「オタク」がむしろ肯定的な文脈で語られるようになり始めたのは、電車男以降だという話を聞いたことがある。が、それは本質的には大衆が「オタクを理解した」訳ではなく、「オタク」という存在が大衆性を獲得していく上でそのニュアンスが希釈された結果、単にその概念が「属性化」されただけだと思う。突出した個性に対する(非公式な)賛辞であった「オタク」という言葉は、大衆が自分の変態性を恣意的にカリカチュアするためのアクセサリーに成り果てたのである。

 閑話休題。
 僕は「オタクであること」こそが、本当の才能であると思っている。
 オタクとは、常人に理解できないほど熱狂的に対象を愛し得る人種のことだが、なぜそれが才能なのかと言うと、人間のあらゆる文化的活動の最たる原動力は、常に「熱狂的な愛」だからだ。

 一つ、例を挙げよう。
 かの有名な「モナリザ」であるが、ダヴィンチは生きている間決してモナリザを手放さず、自分が死ぬまで加筆修正を続けていた、という話を聞いたことがある。常人であれば「どこかのタイミングで見切りをつけて高値で売却し、さっさと第二のモナリザを描き始めたほうが効率的に稼げる」と思うかもしれない。そんなことを考える常人には理解できないほどの「熱狂的な愛」がダヴィンチにあったからこそ、あれほど素晴らしい名画が遺されたのだ。

 ダヴィンチは、モナリザオタクだったのである。

 大衆の思い描く、前時代的でステレオタイプな「オタク」のイメージを先ほど貼り付けたが、彼らはすなわち「二次元という虚構の存在を熱狂的に愛し得る才能を持ち合わせた人間たち」のことであると言える。普通の人たちは「アニメキャラにお金と時間を使っても実際に付き合える訳ではないのに、、」と思うかもしれない。が、例えば「虚構の何かを創造する」という仕事を与えられた際、「アニメキャラなんて~」と言っている普通の人間より「長門は俺の嫁」と臆面も無く言う人種の方が遙かに個性的なものが出来上がるに決まってる。前者は「この程度の手間をかければ、それっぽくなるだろう」という打算で何かを生み出すが、後者は多分寝食を忘れて「俺の思い描く理想の嫁」を追求するかもしれない。その「個性的な感じ」が、僕の言う「才能」だ。

 つまり、オタクとは、打算を度外視して何かに打ち込む才能のことである。
 文化はいつだって、そういう「突出した変態性(=個性)」によって前進すると僕は信じている。

 さて、画一的な打算で以て人間を一歯車に陥れ、その歯車の集合体として組織を運用することで利益を生み出していた前時代的社会構造では、自分の「好き」のために打算を度外視する「オタク体質」の人間は爪弾き者にしかならなかった。だからこそ、あの電車男以前の弾圧的な文化が醸成されていたように思える。

 もしもこの「近代的社会構造」が永遠に続くのなら、「近代的社会構造」が簡単に転覆できないほど「正常」として固定されているのなら、オタクは趣味の範疇で細々と活動するしかなかっただろう。

 しかし、社会は情報化されている。オタクはインターネットを使うことで、自分の世界観を人類相手にオープンできるようになったのだ。仮にどれだけニッチな分野でも、インターネットを使えば、世界に散らばった愛好家たちにコンテンツを届けられるようになった。ファンが作れるようになった。ファンがいれば、そこに需要が発生する。同じ規格の歯車を寄せ集めることでしかできなかった「価値創出」を、オタクはインターネットを通して一人でできるようになったのだ。

 ここで、もう一つ引用。

 もちろん、オタクである、熱狂している、というだけでは不安定で、独自の視点やセンスも非常に重要です。単に「詳しく知っている」というだけではなくて、知識を得る中で研ぎ澄まされていった独自の「視点」こそが価値として定義され、消費されていくのです。

 仮に井戸より深い愛があったとしても、一元的な愛だけでは不足だというのである。

 なぜか。
 簡単だ。
 一元的に「愛している」だけだと、そこから生み出される価値は代替可能だからである。結局「オタク=才能」という命題の本質は「標準的な人間には見いだせない個性」だからである。いくら熱狂的な愛を持っているからといって、似たような性質の愛を持った同類が日本に100万人いたら、そこに「個性」は発生しにくい。

 もしも当人がそれでも満足しているなら、こんなに幸福なことはないと思うが、もしも自分の「好きなもの」をコンテンツにして、毎日パンに困らない程度のお金が欲しければ、代替不能なオタクになるしかない。

 どうやって?

 その答えは、既に先の引用で前田裕二が述べている。
 熱狂的な愛を持ち続け、深く深く掘り下げていく過程で独自化されていく「視点」を持てばいいのだ。

サラバ、三日坊主

 このように、習慣化するためには、自分が快感を感じるポイントをきちんと客観視することです。

 これは、いかにして「メモをとる」という行為を習慣化するかについて前田裕二が述べた文章だが、まさにその通りだと思う。

 僕はどちらかというと飽きっぽい三日坊主体質なのだけど、それでも習慣化できている趣味のほとんどに共通する要素は「やってて楽しい」という事実である。
 でもそれは、僕が何にでも「楽しさ」を感じやすい敏感体質だからという訳ではない。
 要は、引用した通り「快感を感じるポイントを客観視する」、すなわち「客観的に快感ポイントを見つけ」ればいいのである。

 もしも快感ポイントが見当たらないのなら、快感ポイントを自前で用意すれば良い。シンプルな例で言うと「目標とご褒美の設定」だ。
「毎日日記を書く。もし日記を書けたらストロングゼロを飲もう。もし書けなかったらストロングゼロはお預け」
 と設定すれば、どんなに疲れてても「ストロングゼロを飲むために日記書いておくか」となる。なんか、脳は報酬があると活性化するみたいな記事を読んだけどうろ覚えなので割愛。

 そういう「自分ルールを守るだけの意思の強さがない」「俺は日記書かなくてもストロングゼロ飲んじゃう」とお嘆きならば、ここは友人に協力してもらおう。やり方は簡単。ひたすら褒めてもらうのだ。「褒め褒め同盟」というLINEグループを作るのもいい。進捗を互いに共有しあって、誰かが一歩でも進んだら、みんなで褒め合うのである。仮にそれを馴れ合いだと言われても、何も習慣化できず自己嫌悪に陥るより遙かに建設的な馴れ合いじゃないか。僕はそう思う。

 さて、それなりの長さになってしまったので、続きは後編で。

 後編では、序盤にて紹介した「ファクト→抽象化→転用」を、他ならぬ「メモ」という対象にあてはめることで、そもそも「メモ」とは何なのか、その「魔力」とは何なのかを考えていく予定だが、実際にどうなるかはまだ分からない。

 

 

 

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