【労働2.0//中田敦彦】(2/3)
Contents
第1章 やらされ仕事で一生を終えるな!
脱・歯車の道
今現在、労働1.0に身をやつしている人間に対し、今彼らが置かれている環境下、つまり今いる会社という組織の中で「どんな行動をとれば得ができるか」を語りつつ、結局言わんとしていることのエッセンスは、以下に引用する2つのフレーズに収束する。
『この「終身雇用の原則を喜ぶのは、優秀でない人々です。 彼らはクビになったら生活できないので、会社にしがみつきます。
逆に、優秀な人間はノウハウを素早く呑み込み、あらかたの業務をこなして「これをあと何十年も続けるなんてつまらないな」と見切りをつけます。』
『仕事とは、「人に役立つ暇つぶし」。そして暇をつぶすなら、不満顔で働くより、リスクを恐れず楽しく働くほうがいいに決まっています。
それには、人に使われる「やらされ」仕事でないほうがいい。
自分自身の適性にあった、「やりたい」仕事をやったほうがいい。』
ひとつめ、大方の中年サラリーマン全否定である。
だけど、彼が本書で書こうとしていることが「何の向上心もなく勤勉に働いてきた昭和男たちへの痛烈なディスり」でないことは、ふたつめの言葉で仄めかされている。
さくっと次へいこう。第1章はいわば導入である。
第2章 「やりがい至上主義」「コンテンツ至上主義にとらわれるな!」
「働き方」にまつわる思い込み
アイアンマンやバットマンなど、アメリカでは「かっこいい経営者」が映画の主役にはるのに対し、日本の娯楽作品では往々にして「経営者」が、反骨精神溢れる「労働側の人間」に敵対する悪役だったり、あるいはでっぷり肥えた脇役として描かれることが多い。それがなぜかは本書を読んでもらうとして、
要は「雇われる側の視点しか持っていない人間」が多いから、最大公約数的に魅力的なコンテンツを作るにあたって、経営者がそういう印象に追いやられるのだ。
そしてこれから言うことがこの本の公的な要点だ。
雇う側の視点を持て。
しかし中田敦彦は何も「みんな社長を目指せ!」「起業しなきゃダメだ!」と言っている訳ではない。彼曰く『被雇用者という立場を唯一の選択肢にしないでほしい』『被雇用者でありながら副業を持ってもいいし、その中で雇用してもいい』のである。
なぜ被雇用者という立場を唯一の選択肢にしないでほしいか。
それは第1章と第2章の序盤で語られているが、要約するなら「最終的な決定権を持っているのは経営者であり、その下で働く被雇用者である以上、経営者の意向にそぐわないことはできない」「自分の本当にしたいことをしたいなら、経営者になるしかない」からである。
まだ「世の中そんなに甘くない」「サラリーマンしてなきゃ生活できねえだろ」って声が聞こえてきそうな気分だが安心して欲しい。「雇う側の視点を持ちながら食べていくか」の対策は中田敦彦が本書で語ってくれてるし、僕なりの考えもこれから書いていく予定だ。
ここで、もう一つ言及しておきたいことがある。それについて、本書から引用する。
『クリエイティブな仕事をする人はお金に無頓着なほうがいい、という思い込みに皆が駆られていますが、そんなことはありません。 (中略) 面白さと同時に、稼ぎ方を追求していい。 一般社会で生きる皆さんたちも、稼ぐことにもっと貪欲になるべきです。』
僕はこれまでの人生で色々なことがあって「神聖にして真に尊い人間性とはすなわち創造性のことである」と考えるようになった。もっと踏み込んで言うなら、創造性とは神のことなのだが、それについて語るのはまた今度にしよう。 そういう視点があるから多少論調が誇張されてしまうのかもしれないが、「クリエイティブ」という要素はこれからの時代においてかなり重要になっていくと考えている。
なぜか。
せっかく労働について語った本を紹介しているのだから、労働と関連させて語ってみようと思う。
みなさんご存知のAIが今後もっと進化したら、今までマンパワーを割いてきた業務をAIが肩代わりするようになるだろう。自動運転が広く普及したらタクシードライバーという職業はかなりマイナーなものになる。同様のことが多くの事務仕事にもあてはまる。そうなったとき、人間はどうやって生きていけばいいんだろう。僕の抱えている答えは単純。AIにできないことを人間がすればいいのである。
それがすなわち「クリエイティブ」なこと。
人間はこれから「クリエイティブ」なことでパンを食べるしかない。
僕はそう思ってる。
AIに仕事をとられる、なんてまだ先の話だろ。
と言っているそこのあなた。首都圏のJRで本格的に自動改札が導入されたのは、1990年である。 そこから、少なくとも「切符を切る」という仕事はなくなっていった。
でも「クリエイティブなこと」ってナンだよ。作曲なんてできねえよ。
確かに。音楽を作る。絵を作る。小説を作る。どれもまさに「クリエイティブ」だが、僕はもう少し広いニュアンスで「クリエイティブ」という単語を解釈している。
強いて言うなら「才能」だろうか。
つまり、その人間にしかできないこと。
その人間にしか見えていない世界。
その人間にしか考えられない理屈。
それら全ては才能であり、それがあるなら「クリエイティブ」なのだ。
でも俺に才能なんてねえよ。
そう断言するのは早急である、とだけ言っておこう。
だいぶ話が脱線した。
クリエイティブ、才能、自分の好きなこと。それをいかに利益につなげるか。 令和において、労働に対する思考のスキームはそういう風に変わっていくと思う。
話題を話の紹介に戻そう。
第2章ではその他、『長時間労働はちっとも偉くない』『社会が作り出したイメージを追っても意味がない』などが書かれている。正直僕にとっては「言われなくても、、」という印象ではあったが、それを中田敦彦という芸人の生活に絡めて語っている点は読み物として面白かった。
第3章 「やりたい人×できる人」が奇跡を起こす!
強みの見つけ方と活かし方
章のタイトルになっているくらいだから簡単に書いておこう。この世の仕事は全て「やりたい人」と「できる人」の組み合わせでできている、と彼は言う。似たような意味のことを他の本でも読んだから、多分正しい。
その関係性を卑しい形で体現し、のみならずこの社会において「普通」と信仰されている形態が、すなわち「労働1.0」の「会社」だ。
ここでいう「やりたい人」は「金を稼ぎたい」という経営者であり、
ここでいう「できる人」は、もはや「するしかない人」と化した労働者である。
まぁ、その話は一旦置いて、話を進めよう。
やりたいことで食べていけるだけの才能なんてない」
という考えを、なぜ僕が「思い込み」と断言したか。その理由はこの章で語られる。
つまり、第3章の本旨は「才能の見つけ方」である。
と言っても、
「あなたは、実はある分野における天才です。それにあなたは気づいていないだけです。今から私がその才能を発掘してあげましょう。」
彼が書く「才能の見つけ方」は、そうではない。恐らくこれを書いてる僕も、これを読んでいるあなたも、いわゆる「天才」ではないだろう。天才はこんな記事なんて書かないと思うし、天才はこの記事のこの部分まで読んでいないと思う。
では、彼の言う「才能の見つけ方」とは。
それら全てを引用する訳にもいかないから、要点となる見出しを二つだけ引用しよう。
・空腹の状態で自分の「冷蔵庫」を覗け!
・弱点は裏返せ!
そこだけ抜き出すと、論点の存在しないふわっとした自己開発セミナーみたいな印象を受けるかもしれないが安心して欲しい。彼のロジカルな語り口で、「天才でない人」が「 才能」を見つけるやり方を説明してくれる。
さて。
今までそれなりの頻度で「才能」という言葉を使ってきたが、以後、「才能」という単語を「個性」という単語に置き換えようと思う。なぜかと言うと、才能とはすなわち個性のことだと僕は思っているからだ。個性とはすなわち、他人との差分のことである。そして、「真に均質的な人間たち」なんて存在しない。令和以前は、そういった「均質的な人間たち」を量産することで「大衆」を作り出し、「大衆」に対応したコンテンツを生み出すことで、最小の創造性で最大の利益を生み出す構造をとっていた。
という話はこの記事の本旨からズレるし、それについてこれからガッツリ語る予定なので、また今度の機会にしよう。要は、真に均質的な人間なんて存在しない以上、あなたには必ず個性があり、それを煮詰めると才能になるのだ。
閑話休題。
いよいよ才能個性の見つけ方について語ろうと思うが、ここでふと見返してみるとそこそこ文字数のかさむ記事になってしまったから、その話は次回に譲ろうと思う。