【Creative Selection, Apple 創造を生む力//ケン・コシエンダ】(2.0/3)アップルの「共感力」と「テイスト」
iPhoneのキーボード
「パープル」にはハードウェアキーボードを搭載する予定はなかった。「パープル」のコンセプトの中核は、大きなタッチスクリーンと、最小限の物理ボタンだ。アップルは、ソフトウェアキーボードにすべてを懸けていた。
(中略)
ヘンリーは、廊下に並んだソフトウェアチームを見渡して言った。
「今から君たち全員がキーボードエンジニアだ。そして、まとまった数の新しい試作ソフトウェアができたら集合してデモ・ダービーを実施する」そう告げて、ミーティングを締めくくった。
パープルとはiPhoneのコードネームである。
2005年当時、市場で成功していたのは物理キーボードを搭載した「ブラックベリー」であった。ソフトウェアキーボード、つまりタッチパネルでキーを入力する形式は実用レベルでは存在していなかったのだ。
本書を読めば、普段何気なく使っているiPhoneのキーボードがいかに洗練されているのかがよく分かる。物理的なフィードバック(キーの感触)がない以上、あの小さな画面にキーボードを表示させたときにまず真っ先に考えられるのは、例えば「F」を左の親指で押すとき、Fのキーは親指に隠れてしまうのである。しかし、アップルはユーザーに「とりあえず慎重に正確に押してください」なんてスタンスはとらない。Fを押そうと思って画面に触れたらFが表示されていなくてはいけない。そういうキーボードの開発が求められていた。その開発段階で、どのような困難があったのか。どのような知識が絞られたのか。どういった経緯であのキーボードができあがったのか。その詳細は本書の6章と7章に書いてある。逐一書いてもしょうがないので、話を次に進めよう。
2つめのユーレカ
リチャードは下を向くと、タッチスクリーンをすばやく猛然と叩きはじめた。できるだけ早く親指で入力する。タップ、タップ、タップ。止まりもせず、顔を上げもしない。ソフトウェアを信頼する。長い文章が終わると、ピリオドを入力した。それから顔を上げて、入力を確認した。
まさに意図したとおりの内容だった。リチャードはもう一度画面に目をやり、単語をひとつひとつじっくり眺めて、本当にちゃんと入力できているか確認した。そして、私にディスプレイを見せてくれた。
ここで言う画面(ディスプレイ)とは、iPhoneの試作機を接続したMacのことである。
そこには「The quick brown fox jumps over the lazy dog, (以下略)」と表示されていた。リチャードがものすごく正確に入力できただけなのだろうか。いや、そうではない。このキーボードを作った筆者は、タッチスクリーンに実際に入力された内容の記録をとっていた。
「Tge quixk brpwm foz jimprd ivrr rhe kazy…」
コンピュータの世界で俗に言われる「ガベージイン・ガベージアウト(ゴミを入れるとゴミしか出てこない)」とは反対に、でたらめなキー入力が完璧な入力を実現した。
私たちはもう一度キーボードを見て、それから互いの顔を見た。信じられない。この瞬間、タッチスクリーンキーボードのオートコレクト機能が誕生した。リチャードと私は、その場に立ったまま、小さな子どものようにくすくす笑い出した。
筆者がアップルで経験した、たったふたつのユーレカ。
そのふたつめが、まさにこの瞬間だったと言う。
その原理を僕たちが再現するには(=各々の分野に適用するには)どうすればいいか。それを書こうと思って本書を何度も読み返してみたが、このユーレカの底に横たわるテーマは、アップルにおける「ものづくり」の哲学に根差しているらしいことが分かってきた。
アップル流「クリエイティブ」
これを読んでいるあなたは、まずお手元のキーボードを見下ろして欲しい。一番上に並ぶ数字の一段下は、左から順にQ、W、E、R、T、Yと並んでいる。これをQWERTYキーボードと言う。元々この配列はまだタイプライターが使われていた頃、タイピストが文字を速く打ちすぎることによってアームが絡まってしまわないように、意図的にタイピングのスピードを落とすために考案された。速く打てるタイピストにとって、絡んだアームを元に戻しているほうが時間がかかってしまう訳で、結果的にQWERTY配列によってタイピングのスピードは上がった。
iPhoneのソフトウェアキーボードにはそういった物理的な制約がない分、もしかしたらQWERTY配列にとって代わる全く新しいキーボード配列が作れたかもしれない。ソフトウェアもハードウェアも全て自社で設計しているアップルであれば、もっと効率的で、もっとタイピングのスピードが上がるような配列を新しく作ることがでいたかもしれない。配列だけではない。全く新しいキーボードの在り方だってあり得たかもしれない。数回のタイプで驚くほど正確な単語が入力できたり、そもそもタップではなく画面を撫でながら文章を書くことだってできるようになっていたかもしれない。
だが、この想像は、QWERTYが劣った方式だということを前提にしている。QWERTYは劣っていない。その理由は、テイスト(感性)、共感力、テクニックをどのように組み合わせ、ソフトウェアキーボードのようなアイデアを実現させるのか、という点に関わってくる。
どうやら彼らは「QWERTYが常識だから」という理由で、QWERTY配列を選んだ訳ではないらしい。
この「テイスト、共感力、テクニック」の組み合わせは、無論キーボードの開発以外、創作的なこと全てに応用できることだと僕は思っているので、早速紹介していこう。
①共感力
テクニックとは、テクノロジーや創意工夫のことである。技術的な難問を解決するための方法である。(それについては、タッチスクリーンキーボードのオートコレクト機能がいかにして誕生したかを綴った本書を読めば分かるだろう) そして、テイスト(感性)については話が少し長くなりそうなので、先に「共感力」について書こうと思う。
筆者曰く、共感力とは「他者の視点から世界を見、彼らの生活とニーズに適応するものをつくる」スキルらしい。
入力に関する細かい問題に気づく前から、キーボードの第一印象の問題があった。私のデモを見たフィルのように、ユーザーはキーボードの「見た目」に反応する。見た目は、そのキーボードがどういうもので、何ができるかを伝える。
なぜひとつのキーに複数の文字が割り振られているかというと、理由は単純。1つのキーに複数の文字を割り当てることである程度キーの大きさが大きくなる→正確にタップしやすくなるからである。そして、入力されたキーが「y u i」「a s」「n m」だった場合、辞書の候補と照らし合わせて「I am」が表示される、という仕組みである。(この段階ではまだ、全てのキーを独立させた場合、キーが小さくなりすぎてまともなタイピングができない、という問題があった) なるほど、独創的である。
対するフィルは、初見で(=顧客とほぼ同じ立場で)試作キーボードを見て「納得がいかない」と言い放った。それが結論で、試作ソフトウェアキーボードのデモは2分で終わってしまった。確かにこれは一応QWERTY配列だが、「あなたの入力したキーから辞書が候補を選び出して、あなたの打とうとした単語を出力してくれます」という説明がなければ「なにこれ、どうやって打てばいいの」というのが大方の第一印象だろう。
その「大方の第一印象」を想像すること。キーボードに焦点を絞って要約して言うのなら、共感力とはそういうことである。
より広い範囲で簡単に言うなら、受け取る人の気持ちを考える、ということである。もしもあなたが小説を書く人なら、それぞれのシーンで読者がどういう想像をするのかを考えながら書く。もしもあなたがイラストを描く人なら、それを見る人がどういう視点の動きでイラストを見詰めるか、どこに視点が吸い寄せられるかを考えながら描く。もしもあなたが音楽を作る人なら、Aメロでどういう気持ちになるのか、サビでどういう気持ちの上がり方をするのかを考えながら作る。言葉にすると当たり前のように思えるし、創作における自己満足を否定するつもりもない。創作が自己実現の一環であるなら、むしろ自分が満足しない創作は退屈な作業になりかねない。しかし、最低でも一人以上に「じーん」という感情を味わってもらいたいなら「独りよがり(≒自己満足)に陥らず、見る人の気持ちに共感する」という視点を持ち続けるべきなのだ。
これが、共感力である。
②テイスト(感性)
テイストないし感性という言葉は、センスという言葉にも言い換えられるかもしれない。これらの言葉は実にふわっとしたニュアンスで使われることが多い。往々にして「センス」という言葉を持ち出しては「理屈じゃないもの」「持って生まれたもの」等と、そこで考えを打ち止めにしてしまう人が多いように、僕には思える。だが、筆者は「感性は鍛えられる」という見出しで、このふわっとしたニュアンスにズバリと言及している。
私にも自分なりの「テイストの定義」がある。大工にとってのハンマーのように有用な道具である。テイストとは、「見る目を養い、『魅力的でありながらまとまりのあるもの』をつくるバランスを見つけること」だ。
このテイストの定義に含まれる3つの要素、「見る目を養う」「魅力的でありながらまとまりのあるものをつくる」「バランスを見つける」には、いずれも説明が必要だろう。
見る目を養う。
魅力的でありながらまとまりのあるものをつくる。
バランスを見つける。
これらは一体、どういうものなのだろう。
早速紹介していこう、と書きたいところだが、既に文字数が4000字を超えてしまったので、次回へ続きます。