【メモの魔力//前田裕二】(2/3)「メモ」と「本書」を抽象化する。
「メモ」を抽象化してみる。
前田裕二が「ファクト→抽象化→転用」というフレームワークを明文化してくれたことだし、ここでは「そもそもメモとは何なのか」を考えるために、他ならぬ「メモ」そのものを抽象化してみようと思う。
それについてあれこれ考えていたが、考え事の途中経過を逐一書いていたらキリがないから、僕の中で形になった結論をズバリ言うことにする。
メモとは、
頭の中にしかなかった「漠然としたもの」を具体化したものである。
大方の場合、人間は言語で思考する。だから、頭の中に浮かび、流れていく考え事もある程度は「言語的に」理路整然となっているかのような気がする。だけど、人間の頭の中にある考え事のほとんどは結構ふわふわしていて、非境界的で、混沌としている。何かしらの答えを求めてあれこれ頭をひねらせてはいても、その思考の材料となる概念がそもそも現実に存在しない。いわば「三次元的な暗算」である。
①客観性の獲得
まず、混沌としていた思考が、文字に書き起こされるにあたって、客観性を獲得する。僕のメモを誰かに見せても「これ、何について書いてるの?」と言われることが多いが、それでも客観的なのである。なぜか。簡単だ。紙に書く以上、それを見返す自分という客体が必ずそこに存在するからだ。つまり、誰か(あるいは自分)に理解されるように書き残すにあたって、それまで秩序立っていなかった思考が、半ば自動的に「理路整然」となるのである。「現実逃避。未来への悲観。局所的幸福への希望。思考の停止を求める。映画鑑賞もしたい。幸せになりたい。しかし幸せとはなんだろう。素直になるべきだ。人生とは何だ。虚無。(再現)」そんな漠然且つ渾然としていた思考も、たった一言「今日は酒が飲みたい」と書けば、それへと整理される。
②思考の客体化
試しに、今考えていたことを裏紙に書いてみると良い。僕だったら、とりあえず「今日は酒が飲みたい」と書いてみる。すると、僕の中で形のない思念であった「飲酒欲」が記録として、具体的な形として残される。気を抜けば忘れていたかもしれない思念の一つが、これでもうその裏紙を紛失しない限り「アクセス不能な情報」にはならない。浮いた思考リソースは他に回せる。これが②における効用の一つ。
そしてもう一つの効用は、紙に書くことでそれが客体化されるということである。客体化されるとは? そのメモを対象として、あれこれと思考の干渉ができるということだ。
無論、頭の中で暗算しながら、その思考を客体化することも難しくはない。「酒が飲みたいなぁ」と頭の中で考えつつ「じゃあストロングゼロレモン味を飲もうか。ストロングゼログレープフルーツ味を飲もうか」といった考え事は簡単である。
しかし、これがもっと複雑だったり、スケールの大きいことだったりすると、思考の客体化がものすごく重要になってくる。
例えば「月に行って、月面から青い地球を見上げたい」という夢があるとする。頭の中に思い描いているだけでは、それは単なる「憧れ」である。
では、騙されたと思って、あなたの夢、憧れをメモに書いてみてほしい。できれば、A4以上の大きさの余白があることが望ましい。
メモで夢を叶える
メモで夢を叶える、とは本書に幾度となく登場するフレーズである。そこだけ抜き出すと、論点のふわっとしたアヤシい自己啓発セミナーを連想するかもしれないが、前田裕二は最終的にアヤシい壺を売り付けるためにそんなことを書いた訳ではない、と僕は思う。
さて、ここで先ほど夢を書いたメモの再登場である。
やってもらいたいことはただ1つ。「月面から青い地球を見上げたい」を丸で囲み、そこから矢印を伸ばして、その一歩手前に必要なことを書いて欲しい。
「月面から青い地球を見上げたい」
↑
「宇宙ロケットに乗る」
その紙には、そう書かれているはずである。
後は、それを繰り返すだけだ。
「月面から青い地球を見上げたい」
↑
「宇宙ロケットに乗る」
↑
「宇宙飛行士に選ばれる」
↑
「JAXAかNASAに入る」(憶測)
↑
「JAXAのサイトを見る」
これをひたすら繰り返していると、最終的に「体力をつける」だとか「勉強をする」だとかに行き着くと思う。(逆に言うと、そこまで繰り返す必要がある。)「月に行く」ではかなり漠然としていて、何をすればいいのか分からない状態だったが、「体力をつける」「勉強をする」だったら、今からでもできる。だから、それを実行する。それが実行できたら、矢印に沿って、次の行動に移る。これを繰り返せば、最終的に「月面から青い地球を見上げたい」に行き着く。これが、前田裕二の書いた「メモで夢を叶える」の本質だろう。
人間の思考は基本的に時系列に沿って前に進んでいく。だから、上に書いた「月面から地球を見上げたい」というゴールに到達するのに必要なプロセスを逆算するのが、意外に疲れる。不可能という訳ではないが、疲れる。だったら、メモとして客体化して、順を追って逆算していけば良い。1つ1つの漠然とした「何か」を具体化し、それを対象化する。それによって浮いた脳のワーキングメモリで、より深く対象を考察する。それが、メモの威力なのだ。
「メモの魔力」を抽象化したらどうなるか
せっかくだから、前田裕二の「メモの魔力」という本そのものも抽象化してみようと思う。例によって考え事の途中経過を逐一書いていたらキリがないから、僕の中で形になった結論をズバリ言うことにする。
「メモの魔力」とは、
「作り方から創る」方法論である。
ここで僕が「作り方」という言葉を使ったのは僕が作家だからで、もしこれを読んでいるあなたが「何か新しいことを考えたい」「何か新しいことをやってみたい」と思っているような人間だったら、適宜「考え方から考える」「取り組み方から取り組む」等と読み替えて欲しい。
さて、あなたが何かを成そうとしているとき、それに臨む「やり方や道具」を既製品で間に合わせてないだろうか。日本史を暗記するために同じ単語を何度もノートに書いたりしていないだろうか。そういう「暗記のための書き取り」そのものを一元的に否定する意図はないが、何も考えずに既製品の「やり方や道具」で済ませるのは、正直損だと思う。なぜなら、そういった既製品は最大公約数的な調整がされているからだ。人によって感性や感覚は千差万別なのに「みんながしているから」「それが常識的だから」という理由で既製品を使い続けて、割を食うのは自分である。既製品と、自分の中にある「最適解」との間の齟齬によって生じるコストは、看過して良い損失ではない。
例として靴を挙げてみよう。来週あなたは登山に誘われた。登山は未経験だから、どんな靴を買えばいいか分からない。とりあえず、ちゃんとしたブランドのもので、見るからに頑丈そうで、おまけに防水性能も高くて、アマゾンレビューも高評価なものを買うとしよう。しかし、満を持して買った登山靴が足にあわず靴擦れしてしまったら、せっかくの登山が台無しだ。見える景色も見えなくなるし、「家に帰って靴を脱ぎたい」という気持ちが常に登山の邪魔をする。
もしかしたら、あなたにとって丈夫なサンダルこそが最適解なのかもしれない。あるいは裸足のほうが山登りを楽しめるのかもしれない。実際、裸足で芝生を歩いてみたらものすごく気持ちよかった。じゃあそもそも登山なんか辞退して、ちょっとした公園で裸足で散歩するほうが休日を楽しめるかもしれない。
「作り方から創る」とは、つまりそういう考え方のことだ。
何かを始めるときに、周囲の意見や視線、常識と呼ばれるものに囚われず、それを遂行する上で自分にとっての「最適解となる方法」を模索すること。本書を抽象化して僕が思い浮かべたのは、そういう方法論である。
「メモの魔力」とは、そういう「こういうやり方なら、既製品で物事を考えるよりも遙かに効率的である」と提案するハウツー本なのではないだろうか。
転用までやってみよう
既に何度か書いた「ファクト→抽象化→転用」というフレームワークが、本書の骨子である。
では「メモの魔力」≒「作り方から創る方法論」を何か違う分野に「転用」してみたら、記事としても面白いんじゃないかと考えた。「何かあるかな」と考えるためにバタフライキーボードを打つ指を止めたとき、僕の指先は既に答えに触れていた。
前田裕二が「メモ」に対してある種狂気的(僕たちの間では「クレージー」だの「狂気」だのと言った言葉は概ね肯定的な意味合いで使われる)な思い入れを一冊の本にするなら、
僕は、僕が愛するMacBookに対する思い入れを1つの記事にしてもいいのではないだろうか。
つまり「作り方から創る」という抽象を転用した結果として「MacBookがいかに僕の創作活動を最適化したか」を語ろうというのである。
でもそれって「本を紹介する」っていう当ブログの趣旨に反さないだろうか?
いや、少し待って欲しい。
MacBookだって、BOOKじゃないか!
それに、僕の創作において大きな比重を占める「メモ」をMacBookがいかに効率化したか、という視点で語れば、メモについて語った本書の紹介とも間接的に関連するかもしれない。
という訳で、MacBookがいかに「僕のメモ」を効率化したかを語る。
が、そこそこ長い記事になってしまったので、続きは(3/3)で語ります。