【洞察力//宮本慎也】(4/4)成長について
変化、成長
第三章のテーマは「変化」、第四章のテーマは「成長」である。「成長」とは有用な「変化」のことであり、どちらも似たような現象だと思うので、ここでは1つのチャプターにまとめて書いていこうと思う。
さて、この世界は弱肉強食ではなく適者生存である、という考えは正しいと思う。環境はめまぐるしく変化する。その変化に取り残された種は淘汰され、変化に適応できた種だけが生き残る。その原則はもちろん、人間社会にもあてはまる。慣習に固執し、変化を疎み、現状維持に甘んじている人間は、それで死ぬことはないだろうが、少なくとも変化に適応できた人間からは大きく距離を開けられる。
という訳で、僕たちは変化する環境に適応し、何かを成し遂げるために積極的に変化(成長)しなければならない。
では、どうやったら自分自身を変化させることができるか。
変化(成長)のために
まず、理解する
忘れてはならないのは変化の前には自己分析が必要ということだ。自分の力量がどれほどあり、何が不足しているのか。現状を分析できていなければ、変化しようにも回り道になってしまう。
「どうやったら変化できるか」と書いたが、変化自体はその程度を問わなければ簡単である。というか、何年も完全に変化しない人間のほうがまれだ。だからこそ、無数の選択肢から最適な「変化」を選ばないといけない。そのためには、まず理解が必要である。理解を省いた闇雲な変化は回り道であり、時間の損失である。
そして、最適な変化が理解できたら、後にするべきことは1つだけだ。
努力あるのみ
成長とはすなわちレベルアップである。RPGをイメージすれば分かりやすい。然るべき成長をせずにラスボス(=大きな目標)に挑んでも返り討ちにされるだけだ。序盤は弱い敵を倒しまくり、自分を成長させる必要がある。ひたすら、スライムを狩り続けるのである。
こういう作業は、ともすると「ラスボスと関係ないじゃん」と思うかもしれない。無駄に思えるかもしれない。しかし、一見無駄に見ることが必ずしも無益だとは限らない、と筆者は書いている。
この一見無駄に見えることが、必ずしも無益だとは限らない。失敗を重ねる中で、当時の考え方は正しくなかったのだと反省したり、アプローチの仕方を変えてみようという新しい発想が生まれることもある。
結局は無駄なことを経験してきたからこそ、次からは無駄を省けるようになる。無駄なことが、無駄だと気付くことができる。無駄を重ねることが、本当の力を身に付けることにつながると思うのである。
人生において、より遠くまで行くためには無駄な要素を排して少しでも合理化することが必要だ。無駄な荷物をたくさん背負った状態では、すぐに息切れしてしまう。
しかし、聞きかじった知識、本で得た知識だけで「これは無駄」と要素を切り捨てていると、後々になって「実はそれが必要だった」という事態が起こるかもしれない。再び元の場所に戻り、かつて「無駄」と切り捨てた要素を拾い直すことこそ、二度手間である。
だから、人生を合理化する前段階、ラスボスと戦うための準備をする前段階においては、無駄も無益と思わずひたすら努力を重ねるべきなのだ。然るべき変化、成長はそのあとに自然と表れる。
知能爆発に必要なこと
先日、軽く読み流した記事に書いてあったことだから細部はうろ覚えなのだが「人類最後の発明」と称されたその記事に、実に興味深い文章が書かれていた。曰く、人類が最後にする発明とは「知能爆発するAI」だそうである。それが発明されたら、もはや人間の創意工夫も全てそのAIに取って代わられる。人類に必要な発明、科学技術の進歩も全てそのAIがしてくれるのだ。
この「知能爆発」とは、文字通り爆発的な速度で知能を進化させるAIのことであるが、このAIを作るために必要なのは極めて優秀なスペックを持つマシン、ではないらしい。何でも、初期のパラメータはさほど重要ではないそうである。では何が必要かと言うと、それは「自分自身を改善する」というたった一つの特性だけ。その特性さえ実現できれば、仮にどれだけ計算の遅いAIでも、少しずつ自分を改善していき、それがループすることでやがて知能爆発が起きるそうである。
僕はこの記事を読んで「人間にも同じことが言えるのではないか」と思った。
つまり、生まれ持った才能(初期パラメータ)がなくても、自分自身を改善するという特性を持ち続ける限りにおいて、誰しもが「知能爆発」を起こし得るのではないか、ということだ。もちろん、知能に限った話ではない。およそ全ての分野において、自分自身を改善するという特性を常に実現できれば、誰だって「能力が爆発的に進歩した人間」になれるのだ。
だから、これまで散々「変化」だの「成長」だの「努力」だの書いたが、これらは全てたった一つの言葉に集約できる。
それはすなわち「向上心」だ。
向上心さえ持ち続ければ、人はなんにだってなれる。なんだってできる。僕はそう信じている。
補足、有言実行について
ここは個人的に目から鱗だったので、補足として紹介させていただきたい。
周囲に目標を公言することで、柔軟性が失われてしまう可能性がある。
(中略)
もちろん、有言実行は素晴らしいことではある。しかし、その思いに縛られ過ぎると、間違ったと気付いても思考が停止し、極端な回り道をしてしまうことになりかねない。
僕は友人に対して「何かを宣言し、それを言葉通りに実現する」という形でしか信用を得られないと思っていた。どれだけ大変なことでも、宣言した以上は必ず実現させる。そうすれば、仮に今後僕がどれだけ誇大妄想的なことを言い出しても「下村敬ならやりかねない」「下村敬なら最終的に実現する」という信用を得たかったのだ。
だから、何かにつけて「僕はこうする!」と宣言し、それを守るように努めてきた。
例えば、このブログを立ち上げたとき、僕は友人に「3日に1つは記事を書く」と宣言した。(最初の内は手間取って4日かかったりしていたけれど)忙しくても、風邪をひいても、下村敬は必ず3日おきに記事を書く。そういう信用を得たかったのだ。
そこからしばらくどういう生活が続いていたかを書く。
と言っても、大して長い期間でもないからあまり仰々しく書くのも恥ずかしいのだが、もう、四六時中ブログに追われているような気がした。記事ができあがっても、次の3日後のことが気がかりでたまらなかった。遊びに行くのも躊躇うようになり、ひたすらブログのことばかり考えるようになった。そのうち、ふと「ストックを作ればいい」と気が付いた。例えば記事のストックを3つ分作れば、それを3日おきに公開すれば、少なくとも9日間は猶予ができる。9日間で次のストックを作る。ストックを作った分だけ、休める。そういう風に考えていたから、僕は会社が終わり次第近所の喫茶店へ直行し、閉店時間までひたすら読書と執筆を続け、帰宅と同時に憂さ晴らしの深酒。そんな生活をしばらく続けた
僕は元々鬱病患者だったのだが、そういう生活を送った結果、体調が悪化した。「3日おき」という約束を破ってしまった。他の活動も滞った。余計に気分が落ちた。落ちた先で、ふと初心を思い出した。元々「少しでも誰かの役に立ちたい。それ以上に、自分の読書体験を少しユニークなスタイルにしてみたい、それによって自分も楽しみたい」というコンセプトで始めたブログなのに、全然楽しめていなかった。有言実行にこだわるあまり、本当に大切なことをないがしろにしていた。本末転倒である。
という訳で、今後は更新頻度もマイペースにいこうと決めた僕だった。調子がよければ、忙しくなければ、どんどん記事を書くし、調子が悪かったり、他の趣味に熱中し始めたら記事も滞るかもしれない。
自分語りはこの辺にしておくとして、「有言実行にこだわってはいけない」という言葉の意味を、身を以て知ることができた。だから、これを読んでいるあなたも有言実行に拘りすぎないようにして欲しい。より具体的に言うなら、選択肢の柔軟性を狭めるような目標を公言してはいけない。もしも他人に公言する機会があったとして、そこで言うべきことは「みんなに好かれるブログにしたい」というような、ふわっとした目標であるべきだ。
ふわっとした目標なら、いくらでも柔軟に対応できる。
柔軟に方法論を変化させながら、向上心を持ち、然るべき努力を積み続ける。プロも一流も、その先に待っている景色なのだろう。